Banconsan

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小倉千加子

最近の小倉千加子は何をしているのだろう。

これといった記事があまり出てこない。しかし自治体などに呼ばれて講師などしている様子は伺える。お元気そうで何よりである。

先日図書館で、彼女の最も新しい単著「醤油と薔薇の日々」を見かけて、久しぶりに彼女のことを思い出して手に取った。相変わらず舌鋒鋭くとても面白かった。

2013年に出版されているので、記事はそれより更に古いものだろう。最近のものが読んでみたい。

 

「出産はああでなくてはできない」 

若くしてママになることに、「女性としてはあれしかない」と心の底から肯定する女性がいて、年齢はいずれも四十代後半である。子どもを持つことのない運命を「受容」した人には後光のようなものがさしているので、ダルビッシュの結婚を慈母のように祝福できる。

 

小倉千加子「醤油と薔薇の日々」 ママ美の競争

 

本当にそう思う。紗栄子は正しかった。

ももうすぐ後光が差してくるだろうか。

 

森瑤子

思ったより誰にも読まれないということがわかったので、安心して書き捨てることにした。

 

先日ふと森瑤子のことが気になって調べたのだが、今や「もりようこ」と入力してもAmazonにもGoogleにも検索候補に「森瑤子」と出てこないくらい、森瑤子は世の中から完全に忘れ去られたらしい。

瑤子の長女のヘザー・ブラッキンは瑤子の娘という七光りが売りかと思ったら、むしろイギリス人の娘、ヨーロッパ人的センスというセグメントでアピールしているようだ。

seikatsu-homelifestyle.blogspot.jp

 

森瑤子の全盛期、私はまだ学生だったから彼女の事は美人でもないのに何かよくメディアち出てくる作家のおばさん、というイメージしかなかったが、今、検索して出てくる森瑤子のイメージははるかにポジティブだ。

いや、むしろ憧れると言ってもいいだろう。

イギリス人の夫。育ちの良さ。何不自由ない生活とそれに対する倦怠。

持て余す時間と熱情と才能を使って書き上げた小説は売れに売れ、あっという間にスターダムに駆け上がる。

しかもそれは彼女が既にアラフォーと呼ばれる歳になってから成し遂げた成功なのだ。

当時の抑圧されたアラフォー、アラフィフが夢中になったのも無理はない。

 

 この記事などは、登場人物がわかりづらくて混乱するのだが(どちらかというと森瑤子周辺の思いでといった様相)、時代を感じて非常に面白い。

 

patra.kyo.com

 

 

 

 

ところでこの女性のことを考えた時、ある女性の姿が重なってしまった。

 

それはスタイリストの大草直子だ。

 

大草直子も外国人の夫を持ち、中高年女性からカリスマ的な人気を得ている。

顔立ちも似てるといえば似てるような。

いかにも外国人にモテそうな、日本人の基準からは美人というのとはちょっと違う、しかし人目をひく、骨格のしっかりした、眼差しの強い女性。

そして二人ともスタイルのある女性。

 

もちろん大草直子より当時の森瑤子の方がはるかに有名人だし、おそらく彼女の方が遥かにステータスが高く嫌味な存在だったろう。

大草直子はかなり庶民寄りの存在だ。セレクトショップの服もユニクロZARAも同じように着る。

だがそれは単に、それが時代を体現する女性に「求められる」姿だから、なのかもしれない。

 

森瑤子が今の時代に生きていたら、果たしてユニクロのTシャツを手に取っただろうか。

 

 

たまもの

結婚して早2年。ようやく結婚生活にも慣れてきました。結婚によって得たもの、失ったもの、色々ありますが、得たものはおいおいとして、失ったものの中で最も大きく残念なのは、言わずもがな、自分の時間。もっとカッコつけて言えば、内省の時間。文学の時間。

ここ2年の私の頭の中身といえば、部屋が片付かないとか、ババアすぎてもはや何を着たらいいかわからんとか、子なしで夫に申し訳ないとか、毎日体調が悪すぎてもう更年期かとか、非常に実存的というかリアルというか思考停止の日々である。

片付け本ブームにのって、その類の本を片っ端からやっつけた割に何1つ片付かず、夫からは「片付け本を読むという趣味」の人と認定されている。

年齢的に急速に体型と皮膚感が変わってきてどうにもこうにも服が似合わなくなってきたことから、素人に毛が生えたような自称スタイリストの書いたコーディネート本をこれまた片っ端から読んで自分の骨格診断とカラー診断に頭を悩ます。それが昂じてついには大丸のパーソナル診断を受診するんだから、やってることが婚活時代に占い屋や神社仏閣にさんざっぱら金を注ぎ込んだ時と何も変わっていない。容れ物が成熟しても中身は全く成熟しないことに、我が事ながら驚きを禁じ得ない。

不幸にしてというか、幸いにしてというか、子供がいない。であるから、世間の妻業の方々よりはるかに暇な時間があるのが良くないのだろう。

ここで最初の話に戻る訳だが、時間はあっても、大半が夫ももれなく一緒についてくる時間なので、なかなか内省に入れないのである。もう少し稼ぎのある男と結婚できていたら、広い家に住んで個室を手に入れて日々のぐだぐだした懊悩を駄文で書き連ねることもできたであろうに。まぁしかし、ここまで好き嫌いの激しい女が結婚できただけでも奇跡、それ以上を相手に求めては地獄に落ちよう。

 

そんなこんなで、もう文章なんて書く日は永遠に来ないのかもしれないと思ってたところに、先日よりどうにもこうにも心を強く揺さぶる本を読んでしまったことから、私の中にわずかに残っていた書きたい欲求が湧き出てきた。

 

それが、神蔵美子の「たまゆら」「たまきはる」である。

 

たまもの

たまもの

 
たまきはる

たまきはる

 

 この作品を知ったのは、最近出た末井昭の「結婚」という本の紹介を読んだことがきっかけだった。

サブカルドップリの青春時代を過ごしてきた自負のある私だからして、おそらく末井昭の仕事は何度も目にしているはずなのだが、恥ずかしながらこの人を明確に意識したことは今まで一度もなかった。それを言うなら坪内祐三のことも、神蔵美子のことも今日まで知らなかった。

 

「たまもの」の中の物語は、まさに自分が生きた20代後半の、サブカルっぽいものにしか救いを見いだせなかったじっとりした6畳一間での半引きこもり生活を、これでもかというくらいの生々しさで甦らせるに十分の空気感だった。

もちろん私の貧乏生活と彼女の華やかという形容詞はちょっと違うが、サブのなかのメインみたいな文化の生活とは似ても似つかないものなのだけど、なんとなく中野~高円寺感、中央線カルチャー的なものがあるとすれば、まさにこの私写真集の舞台はそこなのではないか(実際には舞台すら違うのだが)と感じさせるものがある。

なんといってもこの女性はものすごく病んでるのである。実際の彼女は多分病んではいないのだけど、文章になるととても病んでいて、そこが当時のサブカルの空気をよく体現している。

この本は彼女の2番目の夫である坪内祐三と3番目の夫となる末井昭との出会いとか別れとか、ぐちゃぐちゃした関係とか胸の内とかの話なのだが、彼女の情念が強すぎて、もともと恋愛体質でない私には全く共感できない。しかし本の中に写る坪内祐三の表情が何とも言えず良く(端的に言えば好みの顔)、そのためすこぶる感情がゆさぶられてしまう。この気持ちはなんと表現したらよいのだろう。

「ザワザワする」。

これ以外の言葉が思いつかない。

(こんな要領を得ない書評を読まされても誰もこの本を手に取る人などいないだろう。)

 

(ところでこの本の中に「僕は救われたかったんだ」というセリフが出てくるのだけど、オザケンが昔ロッキング・オン・ジャパンのインタビューでそのセリフを言ったとか言わなかったとかで(ごくごく一部界隈で)騒動になったことを思い出したのだが、まさかこの本と何か関係しているの?と思ったが、こっちの方が5年も後に出てたので全く関係なさそうだ。)

 

彼女はこの三角関係をきっかけにして、徐々にキリスト教の世界に傾倒していき、つぎの「たまきはる」の主題は神様の話になる。それに周囲の人間の死の物語が絡みつき、時間を行ったり来たりしながら、キリスト教について考え続ける。(キリスト教といってもカソリックプロテスタントではなく、「イエスの方舟」の千石剛賢と、田中小実昌が中心なのだが。)

「たまきはる」でも情の濃いこの女性は銀杏BOYSや舞台女優の江本純子にのめり込んでみたりして、何度も夫の末井昭を置いてきぼりにするのだが(しかし40代でそれだけの情念を維持できるあたりがさすが芸術家は持ってる熱量が一般人とは違う)、最後は「親密」がないと思っていた末井昭との関係に「親密」があったと気づき、彼を愛して生きていこうという自分への宣誓(のように読める)で終わる。

 

大きなテーマの一つは父親の死で、その死についての描写が辛くて辛くて涙が堪えられなかった。私も、いつか両親が死んでしまうということが、想像するだけでも辛くて耐え難い。それは私に自分の子供がいないからなのだろうとずっと考えていた。彼女も子供がいない。

 

父の死は、わたしに愛を照らし出した。父が死に、生きていることと、死んでしまうことの、くっきりした境が、命と、愛をわからせてくれた。生まれたときからずっと愛してくれた人がいなくなる。愛があれば、死んでしまったときに、いたたまれない悲しさを経験する。

喪失という言葉は、喪という字なのだ。人にとって、愛している人が死んでしまうことくらい、失うことのかなしさを味わうことはないのだ。でも、神様は、そういうかなしみも、愛と一緒に、人間に与えるのだろうか。

 

「たまきはる」神蔵美子 

 

書き写すまで「愛している人が死んでしまうこと」を「愛してくれる人が死んでしまうこと」だと読み間違えていた。

死とは愛を失うことなのだと思う。無私の愛を失いたくないと思って、子供のように泣いてしまった。